朝起きて部屋のカーテンを開けるとよく晴れたいい天気だった。テラスに出て町を眺めた後カフェテリアで朝食を取った。
メニューはパンとゆで卵とオレンジジュースとコーヒー。朝食を食べ9事頃にホテルを出発。町から国道を東へ向かい坂を下った
辺りの交差点を北へ曲がる。トドラ渓谷に向かう道は思ったより細いため注意して看板を見ていないと通り過ごしてしまうかも。
途中景色の良い所があったので車を止めて写真撮影。川沿いに進むと谷が段々狭くなってきた。電気すらないんじゃないかと思う
田舎の道端にインターネットと書かれた看板が出ていた。こんな僻地にもネットが行き渡っているとはさすが21世紀と思った。
パームツリーの茂る谷が段々細くなりついには絶壁の岩に囲まれた峡谷となる。
途中道端に警察官が立っていた。スピード違反の取締りではなくトドラ渓谷の入場料を徴収していた。道路の整備などの為に
お金を取っているそうで車一台5DHだった。お金を払った場所から少し行くと写真で見た事のある場所に着いた。切り立った絶壁の
間を流れる川。その手前の川向こうにホテルが建っていた。YASMINAという名前だったのでそこで休む事にした。勝手に入って行き
トイレを借りてまた直ぐに出た。ホテルと道路の間に橋は無く流れの速いところにちょっと板が渡してあるだけだった。増水したら
どうするのだろうと心配になる。写真で良く見る場所で道路の舗装は終わっており、その先は川原になっていた。奥の方から見た
逆向きの写真を撮ろうと川原を奥へ歩いて行くと、その先にまた舗装された道があった。私は写真を撮り終えるとダートの川原を
通り越してもう少し奥へ行ってみる事にした。この時点で時刻は午前11時くらいだったと思う。
川沿いの道を暫く走ると前から車が2台走ってきた。2台めの車がスピードを落としたので見てみると、中からこちらに向かって
手を振っていた。すれ違う時に車を止めると対向車に乗っていたのは砂漠のラクダツアーで一緒だったカタロニア人の二人だった。
この先にBADDOUというカフェがありそこでコーヒーを飲んで町に戻るところだとの事。とても良いカフェだったと薦められた。結局
みんな行動パターンは同じなんだなと思った。思えばこの二人との再会がこの日の私の凶行に火をつけたのだと日記を書いていて
気がついた。
最初のハードルは道路工事だった。百メートルほど工事区間を迂回するために干上がった川底を走るようになっていた。石だら
けの道を走るのはそれだけで結構ストレスだった。暫く走るとまた工事をしていた。今度は未舗装のぬかるみを通るようになっていた。
さらに進んで渓谷を抜けると道端にホテルがあり日本語の看板も出ていた。少し行くとカタロニア人に薦められたBADDOUがあった。
あの二人もこの悪路を乗り越えてきたのかと思ったら、俺はもっと奥へ行ってやろうと思ってしまったらしくさらに先へ進んだ。
道端のホテルの壁に地図が書いてあったので持っていたミシュランの地図と見比べたが現在位置を把握できなかった。先へ進むと
二股の交差点に当たり標識を見ると左がイミルシルと書かれていた。そこで漸く現在地を把握。その時点で午後1時頃だったと思う。
日が暮れるのが午後5時過ぎなので2時頃まで行ける所まで行って引き返してこようと思い、イミルシル方面へもう少し走る事にした。
交差点を曲がると直ぐに舗装が無くなりガタガタのダートロードになった。かなりデコボコだったが気にせず進んだ。道端に
家が無い辺りになると少し走りやすくなった。3速で走るのがやっとのダートロードが暫く続いた。気がつくと道路というより川が
流れた跡のようなところを走っていた。途中ゴミを乗せた大きなダンプカーがゆっくり走っていたので後を追っていたのだが、
追い越せうよに横へよけて止まり私に道を譲ってくれた。峠を過ぎ下りになれば少しは楽になるかと思ったが、今度は川に水が
流れており、水の流れている所を越えなければならないところがあった。しかし川底は平らで浅かったので大きな水溜りを越える
ような感じで無事通り抜けた。
時々2速に落としてタイヤを労わらなければならずなかなかアゴウダルに着かない。GPSを見ながらきっと道を間違えて一つ
南側の道に入ってしまったのだと思った。そうであれば思ったより早く山を抜けてダデス渓谷へ抜けられるからだ。結局アゴウダル
に着き道は正しかった。人間は自分に都合の良いように考え判断を誤るのだと思った。朝出発した時は12時になったら折り返して
ティネリールに戻ろうと決めたのに、あと少しあと少しと延ばしているうちについに午後3時になってしまいもう引き返す事は出来
なくなってしまった。ここまで来たらもうダデス渓谷へ抜けるしかない。
アゴウダルの町は土色のカスバが並び、町のはずれに赤白に塗られた通信アンテナの鉄塔が立っていた。小川を渡って町に
入ると小さな交差点に何人か人がたむろしていた。若い男が私に向かって呼びかけてきたが何もせず通り過ぎた。狭い通りの両脇に
は泥を固めただけの家が並んでいた。暫く走ると少しづつ町から外れているような雰囲気になった。ここから次の目的地ダデスは
南西の方向だが道は北に向かっていた。車を止めて地図を見たが、田舎の小さな町の道路までは分からない。しかし明らかに違う
方向へ向かっているので、途中で標識を見落とさなかった確かめるため来た道を戻ることにした。人がたむろしている小さな曲がり
角に先ほどと同じ男が立っていた。男はまた笑顔で私に向かって呼びかけていた。少し怖かったが覚悟を決めて車を止めその男に
道を尋ねた。窓を開けると理解できない言葉で話しかけてきた。通じていないのが分かったらしく、フランス語で話し出した。
私はフランス語が分からないので今度は「Spanish?」と聞かれ、「ポキート」というと早口のスペイン語でまくし立てて来た。
何を言っているのか全く分からなかったので、駄目元で「English?」と言うと片言で英語を話し出した。英語はあまり話せない
ようだったが、ダデスへ行く道を尋ねるとこっちへ曲がって真っ直ぐだというようなことを身振り手振りを交えて教えてくれた。
そして礼を言うと見返りを求めることも無く挨拶をして分かれた。地獄で仏に会った気持ちだった。しかし、こんな山奥に4ヶ国語
も話せる人がいるとは。日本ではとても考えられない事である。結局その男が立っていた小さな交差点を左折するとダデスへの道
だった。それまで近寄ってくる人はみな押し売りのように思っていたので、男がやたむろしている人が怖くて通り過ぎてしまった。
もっと怖がらずに人を信じなければいけないなと思った。町の中から既に道とは思えない道になっていた。しかし、私には彼を
信じてこの道を進むしかなかった。
町を出ると四駆でないと走れないような道だった。川沿いの道は時々川と交差し水の中を走らざるをえなかった。そして
いつの間にか川を渡るのではなく川の中を走ることも当り前になっていた。挙句の果てには大き目の岩を幾つか乗り越える場所が
出てきた。途中で止まったら身動きが取れなくなりそうなので、通る前に車を降りて近くへ行きどこにどうタイヤを通すか戦略を
考えてから渡らなければならなかった。暫くすると道端に1メートル四方くらいのペンキで白く塗られAUBERGE(宿)と書かれた
コンクリートの看板があり、道が二股に分かれていた。右の道は川上に向かって川に沿って続いていた。左の道は川を渡って
そこで別れいてる川の支流沿いに川下に向かっていた。ここで間違えたら命取りである。失敗は許されない。私は悩み続けた。
地図を見たりGPSを見たり、持てる情報と知識を総動員して考えた。看板にスプレーでNRと書いてあり右の道の方に矢印が書かれて
いた。地図によればもう一つ峠を越すはずなので、川下ではなく川上に向かうはず。万が間違っていても右の先にはどんなところか
分からないが宿がある。私は15分ほど悩んだ末に右の道を選んだ。
暫く行くと山の上のほうから四駆のトラックが2台やってきた。初めての対向車だった。自分以外にもこの道を通っている人が
いると思うと少し気が楽になった。そう思ったのも束の間、その2台が最初に見えた辺りへ行くととんでもない岩場があった。
左は断崖絶壁右も崖。道幅は車より少し広い程度。岩の段差はひどい所では完全に私の車の車高よりも高かった。岩場の向こう側に
なぜか少年が立っていた。車を降りて岩場を見に行くと少年が此処を通れば行けるよとばかりに踏破のルートを示してくれた。
確かにその通りに行けば乗り越えられそうだった。しかし一つ間違えば断崖絶壁の谷に落ちてしまう。この先にもこういう岩場が
あるかどうか少年に聞くと、此処から先はこんな岩場は無いと言う。アゴウダルへ引き返すか乗り越えるか真剣に悩んだ末、先ほど
人を信じようと思った事を思い出しこの少年も信じてみる事にした。なんとか無事岩を越えて窓を開けて少年に礼を言うと少年は
カードをくれてこの先にホテルがあると教えてくれた。走り出すと少年も自転車で後からついてきた。すると坂道の先に山小屋の
ような石で作ったホテルがあり胡散臭そうな中年の男二人が手招きをしながら呼んでいた。それを見た瞬間私の勘がここに入っては
いけないと言うのでホテルのすぐ手前で引き返した。すると男たちはこっちで良いんだと言うようなことを大きな声で叫んでいた
呼ばれれば呼ばれるほど怖くなった。少し戻ると坂道の途中に川へ降りていく道があった。その道は分かりにくいようになっていて
初めて来た人は自動的にホテルの方へ行ってしまう様になっていた。それをみて益々そのホテルのことが怪しく思えた。川を渡って
先へ進みバックミラーでホテルの方を見ると男二人と少年がこっちを見ていた。
ここから先が地獄だった。周りの山肌に雪が見えてきた。標高は3,000メートルに近づき遠くの山は殆ど雪に覆われている。
雪解け水で道がぬかるみ出した。ここでぬかるみに嵌ったら誰も助けてくれない。坂道の斜度も増してきた。道幅の半分近く雪に
覆われている所があり、そこを斜めに傾きながら越えると横に滑り出して谷に落ちそうになる。雪やぬかるみの上り坂、止まったら
きっと動けなくなる。私は「止まるなよぉ、止まるなよぉ・・・」と呟きながら運転していた。そして何より辛かったのは陽が傾き
だしたこと。明るくても路面の状況が分かりにくく危険なので、ここで夜になったら前に進むことは出来ない。3,000メートル級の
山の中で一人で夜を明かすのかと考えたら本当に怖くなった。気が付くと恐怖で体がガタガタと震えていた。それまでも怖かったが
何だかんだ言って景色の写真を撮る余裕があった。悔しいのは一番怖かった最悪の場所では写真を取る余裕が無く何も残っていない
事。
暫くすると遠くの景色が見えた。オウアノ峠に着いたようだ。峠には少し平らな道があり道端にコンクリートの道標があった。
道標にはまたスプレーでNRと書かれていて、今度は矢印は双方向に2本書かれていた。「Natinal Roadはこっち」と言う意味だろうか。
上りは本当に精神的にタフだったが峠を越えて道が下りになると少しだけ気が楽になった。石を避けてタイヤをいたわり、クラッチ
を切ったりして燃料を節約しながら下っていった。驚いたのはこんな山の中にも人がいて景色の良いところで写真を撮ろうとすると
どこからとも無く車に近寄ってくる。アトラス山脈の景色の良い所には必ずと言って良いほど羊がいて、近くを通る車が止まりそう
になると羊飼いが近寄ってくる。写真を撮ろうものならきっと金を払えと言われると思うとせっかくの景色なのに落ち着いて写真
を撮ることが出来ない。グランドキャニオンのような峡谷が見渡せる場所があったので車を止めて写真を撮ろうとしたら、下の方
から青い民族衣装にターバン姿の男が近寄って来るのが見えた。私は写真を撮り終えると直ぐに車を出した。彼はここに住んでいる
のだろうか?それとも家に帰る途中だったのか?陽が暮れかかった人里までは100キロメートル以上ある山中にいると言うことは、
確実にそこで夜を迎える。きっと渓谷の穴倉で暮らしているのだろう。
右から左に傾いた斜面を削っただけの道は谷側に傾き、下手をすれば車が転がってしまいそうな感じである。所々斜面を流れる
水で掘られた深い溝があり、うっかり減速せずに通り過ぎると物凄い衝撃を受けてしまう。轍の間に大きめの石があって車の腹に
当たって大きな音がする事もある。そういう時は谷側のタイヤを少し斜面に乗せるような感じで轍を避けて走る。暫くすると遠く
先のほうまで道を見渡せる所にきた。車を止めて自分がゆく道の先を見るとはるか遠くに此方に向かってくる車が見えた。自分以外
の車に出会ってホッとしたのも束の間、どうやってすれ違うのかと考えたらぞっとした。対向車も此方に気が付いたのか一旦停止した。
私がいる所では明らかにすれ違いが出来ないので取り合えず先に進んだ。対向車も進みだした。そして2台は道が大きく曲がった
カーブで出会った。モロッコは右側通行なので私は山側で対向車は谷側。対向車はワゴン車で何人か乗客を乗せ屋根の上には荷物が
積まれていた。そしてカーブの真ん中で谷側ギリギリの所まで寄って止まった。私は右のタイヤを斜面に乗せて斜めになりながら
進んだ。もう少しで車の先が対向車のお尻の後ろに出そうなのだが、あと数センチ足りずこのままだと当たってしまう。そこで止
まって様子を見たが対向車は全く動こうとせず、こちらに進めと言っているようだった。私は右のタイヤをさらに斜面の上のほうに
のせた。横滑りしそうになったが前進してなんとかすり抜けた。そしてそのワゴンは峠に向かって上っていった。
山肌の道が終わり川原道になるとアゴウダルを出て最初の建物が見えた。目的のブーマルン・ダデスの町はまだはるか遠くだが
人が住んでいるというだけでとても気が楽になった。その建物はホテルだった。近くへ行くと道路を川が横切っていた。車を降りて
水深を確かめに行くと向こう側に男が立っていて平気と言う様に手招きをしている。反対側の土手の角度がちょときつそうだが、
越えるしかないので進んだ。速度をつけて大きな水しぶきを上げて一気に進むとやはり前のバンパーが土手に当たってガガッと音を
たてた。土手は尖っていたので腹がつかえないよう勢いをつけて飛び越えるような気持ちで進んだ。案の定ガリガリッと腹を擦った
がなんとか通り抜けた。建物の前を通るとそれはホテルだった。外壁はピンク色できっと中もまともそうな雰囲気だったので、
最悪ここに泊ればいいかと思うととても気が楽になった。
ホテルを過ぎると道端に人が歩いていた
。彼はどこまで行くのだろうと思いながら先へ進むと暫くして人里に着いた。恐らく
Tilmiの集落である。そこから先は時々集落があった。川の両側に集落があり反対側へ行こうとしたら細い橋を羊の群れが渡っている
最中だった。羊が渡り終えて反対側の集落へ行くと道が十字路になっていた。右は川上なので、真っ直ぐか、左だが、地図を見ても
どちらか分からない。迷っていると近くに5歳くらいの女の子が立っていて左のほうを指差していた。窓を開けて「ダデス?」と聞く
と無言で左折の方向を指差すだけだった。私は少女を信じて左折した。そして暫くすると道幅が広く平らに慣らした道になった。
舗装工事の途中という感じだった。ここまで来るともう恐怖感はなくなっていた。気が付くと日が暮れて暗くなっていた。ワゴン
のタクシーが走っていたので後ろについて走っているとワゴンは右によけて先に行かされた。道を間違えていないか車を止めて地図
を見ていると、先ほどのワゴンが止まって男が二人降りてきた。一人がダデスまであと70キロあると教えてくれた。そして寝る所が
必要だろうと言う。このまま走ると英語で言ったつもりがどう伝わったのか、男は助手席のドアを開けようとしてきた。どうも私を
ホテルに案内しようとしたらしい。私はNOと言うと一生懸命ドアを開けようとするので、礼を言って走り出した。
陽もとっぷりと暮れて真っ暗の道をダンプカーの後ろについて走っていった。すると立派な門の有る町についた。門の向こうは
大きな広場になっていて大勢の日で賑わっていた。恐らくMsmrirの町である。門をくぐらずに町の横を通り過ぎるとそこから道が
舗装されていた。これで暗くてもどこまでも走れると思った。前を走っていたダンプが上り坂で右によけたので先に行くと、大きな
水溜りとでこぼこのダートロードがあった。安らいだ心が再び凍りついた。Msmrirに戻って泊るべきか、先へ進むべきか迷ったが
先に進んだ。大きな水溜りは深いのか浅いのか分からない。取り合えず端っこをゆっくり進み無事通過。ダートロードが数十メートル
進むと再び舗装道路になった。ダデス峡谷のエリアに入ったようで道の両脇には所々切り立った断崖絶壁があり、暗くても回りは絶景
なのが分かった。せっかくのダデス峡谷にこんな時間に来てしまったのを悔やみ出した時、道端に何軒かホテルがあった。このまま
走っても何も見えず、ワルザザートまで行っても特に見るものは無いし治安も悪いかもしれない。ここに泊って朝早く出発すれば
次の目的地到着に遅れる事もないしここの景色も見れる。私はUターンして最初にあったホテルの前で車を止め社内灯をつけて地図を
開き場所を確認した。するとホテルの前にいた男が寄ってきて地図でホテルの場所を示してくれた。ライトに照らされたホテルは
小奇麗だった。一泊いくらか聞くとシャワートイレ付き夕食朝食付きで350DHという。交渉をしていると四駆のトラックが1台入って
きて、フランス人らしき男女二人がホテルへ入っていた。それを見て私も泊ることにした。宿泊すると決めたらとても気持ちが楽に
なった。
部屋の中はとても綺麗だった。トイレもシャワーも清潔でベッドも窓も天井もカントリー風でセンス良く作られていた。夕食の
時間になり食堂へ行くと先ほどのフランス人二人が入ってきた。どうやら宿泊客は私とその二人だけらしい。夕食はタジンと並んで
有名なモロッコの郷土料理のクスクスだった。麦のような穀物の山の上にニンジン、ズッキーニ、トマトなどをのせて炊いてあり、
味付けはタジンに似て塩味で良い出汁がでていて美味しかった。しかし量が多く大食いの私でも半分食べるのがやっとだった。砂漠の
ホテルで昼飯にクスクスを頼んだ時に一人では多いから駄目だと断られた理由が分かった。ホテルの人が食事の説明をしたが
フランス語だったので分からずにいると、フランス人の男が英語で通訳をしてくれた。それまでお互いに知らんぷりをしていたが、
それをきっかけに食事が終わるまで色々と話をした。男は日本に興味を持ったことがあって、宮元武蔵の五輪の書を読んだことが有る
とか、キルビルという映画で日本の文化を知ったと言っていた。パリ近郊に住んでいるとの事。私は最終日にパリへ行く予定なので
あなた達が普段良く行くお薦めのレストランやカフェを教えてくれと頼んだが、あまり詳しくなかったようで、ガイドブックにも
載っている超有名な高級店を3つほど教えてくれた。
食事を終えて部屋に戻ってベッドに横になると今日一日の出来事が思い起こされた。今日は本当に泣きたくなった。恐怖で
体が震えたのはいつ以来だろう?途中で車が壊れなくて本当に幸運だったと思う。山の中を走っていた時の事を思い出すだけで
恐怖が甦って来る。山を下りて人里に着いて辺りが暗くなってきた時、軽飛行機のIFRフライト(計器飛行)を思い出した。
共通点は自分との戦い。IMCや夜間飛行の恐怖感を克服した時と同じものを感じた。ルートのプランや燃料を計算しながらの移動など
クロスカントリーフライトと同じ要素もある。それにしてもGPSを持っていなかったら私は山のかなで気が狂っていたに違いない。
GPSは本当に便利なものだと見直した。
山の中を走っている時、私は路面をクラス分けしてスピードを調整していた。と言ってもクラス1から5までギアの1速から5速
に対応させて種類分けしただけだが、恐怖でパニック状態になっている自分をコントロールするのにとても役立った。
クラス3 砂利やデコボコがあるがスムースに走れる
クラス2 ゆっくり溝や石を越える所がある
クラス1 何も考える余裕なし
自分の中に路面をクラス分けする自分と運転する自分の二人の自分がいて、クラス分けする自分が「ここはクラス3だ、いや2だ」
と言い、運転する自分がそれを聞いてギアを変える。と言った具合に私は本当にクラス分けを口に出しながら運転していた。
心が弱くなると人は人を信じる事が出来なくなる。しかし、今日、私は3人の人を信じて救われた。
一人目 アゴウダルで道を教えてくれた4ヶ国語を話す男
二人目 岩場で踏破ルートと先に岩場が無い事を教えてくれた少年
三人目 十字路で左折しろと指差してくれた少女
フェズのスークやエルフード
の町のガラの悪そうな人や、リッサニで看板を隠して旅行者を騙そうとする人ばかり見てきてちょっと人が嫌になっていたが、
この3人に救われた。
モロッコの道を走っていると道端にいる人たちは車に向かって色んな反応をする
・大声で車に向かって怒鳴る
・タクシーのように指を立てる
・ただ手を振る
・走り寄ってくる
・ちょっと待てと止めようとする
・手を上げて挨拶をする
一度だけ山奥の人里で道端にいた子供が私の車を見て走って畑に逃げていった。それまで人が近寄ってくると鬱陶しくて嫌だったのに、
逃げられるとなんだかショックだった。人間は勝手なものである。
泥水の水溜りを越える時、以前日本で同じことをした事があるのを思い出した。硬くなった土の道路も走った事がある。
轍の避け方や池の越え方を体が覚えていた。でもそれが何処だったのか思い出せない。もしかすると父の運転する車で経験したの
かも知れない。確かなのは私が子供の頃は日本にも同じような土や砂利の道があり雨が降ると大きな水溜りが出来たりしていた事。
そう思うと何でそんなに怖がっていたのかとも思う。今から40年前の日本はここと同じだったんだ。道はダートで家は土壁、トイレ
は汲取り式、電話も風呂も無い家もあった。海外旅行なんで夢のような話だった。日本は昔に比べると夢のような世界になっている。
これから日本はどうなるのだろうか。
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