諸行無常
2016.03.10
自宅の近所のハム屋さんの店舗が解体され更地になった。昨年末で廃業したらしい。ハム屋さんのオーナーは十数年前に亡くなり奥さんが商売を続けていたが、高齢となりついに店じまいをしたとの事。ここ数年で子供の頃からあった建物が無くなって行ったが、このハム屋さんとは少なからず縁があったので、無くなったのはちょっとショックだった。

その店舗は私の家から家一軒と道路を挟んで少し低いところにあり、間の家が建替える前は私の家から店舗が見えていた。店舗を囲む住宅地や駐車場など数百坪は昔そのオーナーが所有していて、私が生まれる前からそこで牧場を営んでいた。私が子供の頃は牧場の牛が逃げて家の近くを歩いていた事もあった。私が小学生低学年の頃に畜舎が火事で全焼し、それを機に牧場を閉じて跡地に大きな自宅と肉屋の店舗が建った。私の父は建具屋でその店舗の建具の注文を受けていたので建て付ける時に私も付いて行き、まだ引き渡し前の店舗内をあちこち探検させてもらったので、どんな間取りだったか良く知っていた。オーナーは郊外にもう一つ牧場を持っており、そこで育てた牛や豚の肉をその店舗で解体し販売した。下衆な勘ぐりだが牛や豚をそのまま販売するよりも、精肉にして小売する方が付加価値が付く分きっと儲かっただろう。

そのオーナーはとても気さくな人で家族で一緒に旅行をしたり、時々自宅の夕食に招いてもらったりして家族ぐるみの付き合いをしていた。私の結婚式にも来賓として来て頂いた。オーナーは牧場や肉屋以外にも会社を持つお金持ちでロータリークラブにも所属してた。私が中学生の頃、オーナーが神戸の三田屋でハム工場の見学をして帰ってきて自分でもハムを作り始めた。時々夕食に招待されると試作したハムが出されて感想を求められた。本人は生ハムといっていたが、今思えば普通のハムだった。見た目も材料も良いのだけれど正直とても塩味が強くあまり食べる事が出来なかった。私は一枚食べるのが精一杯だったが、だれもしょっぱいとは言わなかった。いや言えなかった。暫くしてオーナーは自家製ハムの販売を開始した。最初のうちはやはり少し塩味が強かったが何年か経つと塩はきつくなくなっていた。

ハムの味も良くなり、ソーセージや鶏肉の燻製など品揃えもバリエーションが増え、精肉とハムの販売量が逆転しついに精肉の販売をやめてハムの専門店になった。オーナーはロータリークラブに入っていたくらいなので、葉山辺りのお金持ちにも人脈があったのか、御中元や御歳暮の時期になるとよく店舗の前に注文に来た客の高級外車が止まっていた。私は社会人二年目から転勤で地方や外国を転々とし38歳で実家に戻ってきた。私が海外駐在中にオーナーは病気で亡くなり奥さんが商売を続けていた。そのハムはすっかり地元のブランドとして定着し、私も何度か御世話になった方への御使い物に利用させてもらった。そして昨年、ついにハム屋は廃業しその場所は更地になった。

その更地を見て二つの事を考えた。一つはビジネスの事。牧場、精肉販売、ハム製造販売という業態変化の中で、オーナーは自分の力で商品に付加価値をつけて行き商売を大きくして行った。そして最後にはローカルとは言えブランドを確立するまでに育てた事。もう一つは世代交代の事。地元に根付いたブランドも次の世代に引き継がれなければ無くなってしまう。と言うか会社やブランドは作り上げた人そのものであり、その人と共に生まれ共に消えてゆく物なのだとしみじみ思った。そこにあった物が時代と共に姿を変えて行き最後には消え去る。その更地を見る度に牧場、牛、開店前の店舗の内部、子供の頃肉を買いに行かされた事、塩味がきつかったハムの試作品、家族ぐるみで行った旅行や食事などが走馬灯のように頭の中を巡り、一つの世代が終わったと思わされる。



北朝鮮と戦前の日本
2016.03.06
最近の北朝鮮のニュースを見ると1930年から1940年頃の日本もきっと同じような状況だったのではと思う事があります。

北朝鮮
共産勢力に担がれた金日成が国民の崇拝対象となる。軍事力増強のため軍人は不自由なく暮らしているが国民は貧しい生活を強いられる。地方の経済は悪く餓死者が出る事もある。原子力発電、核弾頭、最先端のロケット技術を持つ。

日本
グルーバル資本に担がれた明治新政府が天皇を担ぎ国民の崇拝対象となる。軍事力を増強し大国にも戦争で勝つが農村は餓死者が出る事もある程貧しい。世界最大の戦艦大和を建造するなど技術力を持つ。

北朝鮮に対する制裁を強化しようとるするニュースを見る度、戦前のアメリカの対日鉄禁輸、石油禁輸、資産凍結などの出来事を連想します。
硫黄島の戦い
2016.02.16
今から71年前の今日、昭和20年2月16日、アメリカ海軍は硫黄島に上陸準備砲爆撃を開始。艦載機による空爆と艦砲射撃は三日間続き19日にアメリカ海兵隊が上陸を開始、所謂硫黄島の戦いが始まった。戦闘は1ヶ月半続き3月26日に日本軍による組織的な戦闘は終わる。日本軍20,933名のうち20,129名が戦死、アメリカ軍は6,821名の戦死を含む28,686名が死傷。アメリカ軍の上陸後たった三日間で戦死傷者数がノルマンディ上陸作戦を上回るほど大東亜戦争の中でも屈指の激戦だった。双方甚大な損害となりアメリカ軍幹部をして勝者無き戦いと言わしめた。クリントイーストウッド監督渡辺謙主演の「硫黄島からの手紙」(2006年)にこの戦闘が描かれているのでご存知の方も多いと思います。

戦後日本政府による遺骨収集帰還作業が始まったが未だ一万柱以上が未帰還のまま。2013年4月14日安倍晋三が日本の首相として初めて硫黄島を訪問した時、彼は飛行機を降りるなり地面に膝をつきその下に眠っている戦没者を弔った。コンクリートの下に埋れているお骨を回収する為に滑走路の舗装を剥がす事も検討されている。占領後硫黄島に配備された戦闘機は日本を空襲する爆撃機の援護にあたり、また故障や損傷した爆撃機が不時着する基地として硫黄島は活用された。アメリカ軍は日本本土で200以上の都市を空襲し30万人を越える日本の一般市民が殺された。硫黄島の戦いを生き延びた人も硫黄島で亡くなった人も、きっと硫黄島を守りきれず無念だったろうと思います。

紀元2676年
2016.02.11
ブラタモリの熱海の回で丹那トンネルの壁に添付した写真のように2578、2594と二つの四桁の数字が書かれているのを紹介していました。これは起工と竣工の年を皇紀で表したものでした。日本の年号というと平成とか昭和などの和暦が一般に使われていますが、数十年で変わるし江戸以前はなんとか何年と言われてもいつなのかピンと来ません。でも皇紀は西暦と同じ様にずっと連続しているので、和暦よりも長い歴史を振り返るのに向いている気がします。しかし、いかんせん歴史年表を見ても皇紀で記しているものは無いので、結局いつの事だか分からないのが現実です。勿体ない。今日は紀元節、今年は紀元2676年です。今年が紀元何年かは西暦に660年を足せば良いので簡単に分かります

OCTMORE in Bar Trench
2016.02.09
ピートが効いてて珍しいのは有るかと尋ねたら、オクトモアの金ラベルが出て来た。黒ラベルよりアルコール度数が高く、ピートの強さとバランスが取れている感じ。ただ、慣れない人には拷問かも^_^。この店でもハーフのみで提供している。

右後ろのニッカの伊達、あまり見かけないと思ったら宮城県限定だそう。宮城峡にグレーンをブレンドしたもの。何も聞かずに勝手にロックにして出て来たけど、素直にそのまま味わった。たまにはブレンドもいいな。

- CafeNote -