山本五十六はスパイだった!?
2015.08.15
終戦記念日が近くなり先の戦争について色々調べ山本五十六についてある仮説に至った。それは山本五十六と参謀長の宇垣纏(うがきまとめ)はアメリカのスパイだったという説だ。実際、山本の行動には幾つか疑問が残っている。何故山本は緒戦を真珠湾攻撃に固執したのか?率先して航空戦力の重要性を説いていたのに真珠湾攻撃では敵空母の存在を知りつつ何故それを叩かずに撤収させたのか?敵の情報も乏しく自分の海軍の準備もおぼつかないのに何故ミッドウェー攻撃に固執し決行したのか?何故彼は戦争中に暗殺されたのか?山本の直接の死因は墜落ではなく拳銃で撃たれたのではないか?などなど。そこでもし彼らがアメリカのスパイならと考えてみたら、これらの疑問を全て解く事が出来た。山本五十六の死に方を想像していて数年前に毎日観ていたCIAもののドラマを思い出した。そのドラマ風に山本五十六暗殺までのストーリーを考えてみた。

山本五十六は海軍に入隊してすぐハーバード大学に留学しその後駐在武官として再び渡米している。宇垣纏は駐在武官としてドイツに2年間駐在した。彼らは海外駐在の間にアメリカの諜報部と接触しスパイとなる。帰国後アメリカの国益の為に日本政府の中枢で日独伊三国同盟や対米開戦に反対する。アメリカは孤立主義から方向を変え日本と戦争をする事に決める。ルーズベルト政権はアメリカ国民の対日憎悪を煽り対日開戦の支持を得る為、日本帝国海軍に真珠湾の米海軍基地を攻撃させる計画を立て、それが山本と宇垣に伝えられる。当時日本ではまずフィリピンの米軍を攻撃するという意見が大勢だったが、山本はがんとして真珠湾攻撃案を通す意思を曲げなかった。それはアメリカから受けた命令を遂行する為だった。

真珠湾攻撃当日、肝心の空母が基地に居なかったので空母を探して叩くべきと本国から言われたが山本は取り合わなかった。なぜなら空母は避難させて温存しておくのがルーズベルトのプランだったからで、山本はそのプランに沿って作戦を実行したのだった。

宇垣纏は日米開戦直前から戦藻録と題した日記をつけ始め終戦の8月15日まで書き続ける。それは宇垣のスパイとしての報告書で、万が一見つかってもバレないよう日記の形式で書いていたのだった。アメリカの最初の東京空襲の2ヶ月前、彼はアメリカによる東京空襲の可能性についてその日記に書いていた。彼はアメリカからの情報で東京空襲の作戦を知っていたから書けたのだ。

アメリカは日本との戦争終結に向けて動き始め、日本帝国海軍の主力空母をミッドウェーに集めて壊滅させる作戦を立てる。山本は真珠湾の時と同じようにアメリカの作戦に沿う為に大勢の反対を押し切ってミッドウェー海戦に突入する。この時日本帝国海軍はアメリカ海軍がどこにどのくらい居るのか全く知らずに向かった。そして結果はアメリカの計画通り日本帝国海軍が惨敗する。

山本は万が一アメリカに裏切られた場合に備えてイ400型潜水艦でワシントンDCを直接攻撃可能にするという保険を掛けていた。山本はこれをアメリカに秘密にしていたので終戦まで連合国側はイ400潜水艦の存在を知らなかった。しかしイ400の完成は間に合わなかった。ミッドウェーで日本帝国海軍が壊滅しアメリカにとって山本の存在は不要となりアメリカは山本の暗殺を計画する。山本は暗殺を恐れ後方から指揮を取るようにしていたが、アメリカから山本暗殺の命令を受けた宇垣は山本を説得して前線の兵士を慰労する為としてラバウルに誘き出す。山本のラバウル訪問の情報は長文で詳細に打電された。その2週間前に帝国海軍は暗号の乱数表を変えたばかりで暗号は解読されていないはずだった。しかしその電文は何故か古い乱数表を使って打電された為アメリカに解読されていた。それは宇垣が山本の行動をアメリカに知らせる為にやらせたのだった。

当時ブーゲンビル島周辺は日本が制空権を握っていたが、山本の行動の詳細を知っていたアメリカ軍は意表をついて遠方から高高度を飛べるP-38で現場へ向かい山本が乗った一式陸攻を撃墜する。同乗していた高田六郎軍医長もアメリカのスパイで、彼は墜落後まだ生きていた山本の頭を拳銃で撃ち止めを刺した。宇垣が乗った2番機も撃墜されるがこれはカモフラージュで、海岸近くに不時着してパイロット1人り以外は生還している。宇垣は山本の死を確認し山本の遺骨と共に戦艦武蔵で内地に帰還する。

その後宇垣は司令官や艦隊長官を勤めるが、玉音放送後に周囲の制止を押し切って特攻隊に混じって彗星艦上爆撃機で大分から沖縄へ向かって飛び立つ。沖縄県伊平屋島の海岸に張られていた米軍のテントの近くに宇垣が乗っていた可能性が高い彗星が墜落し二人の遺体が収容されたとされているが、それが宇垣だったとは日本側によって公式に確認されておらず彼の死亡は不明とされている。実はそのテントは宇垣を回収するためにアメリカ軍が設営したもので、宇垣は無事収容されアメリカに渡り別人としてその後の人生を送った。

日本帝国海軍の高官にアメリカのスパイが何人もいるはずが無いと普通は思うだろう。私も以前は想像もつかなかった。しかし、ヴェノナを読んで常識がひっくり返った。第二次大戦前から大戦後までの間、アメリカのホワイトハウスや政府には少なくとも200人を超えるソビエトのスパイがいたという事実が判明している。ルーズベルトの側近にもソビエトのスパイが数人おり、ルーズベルト自身もスパイだったのではと言われている。なのでヴェノナの内容は当時大統領にも知らされていなかった。アメリカがそんな状況なのだから、大日本帝国の政府にアメリカのスパイが数人くらいいてもなんの不思議も無い。もしかすると特攻も大日本帝国の軍隊を根絶やしにするアメリカの工作によるものだったかも知れない。
交通事故とJAL123便
2015.08.11
とある割烹のカウンターで食事をしていて女将と交通事故の話しになった。自動車は事故を起こせば人を殺してしまう可能性がある、だから車を運転する時はいつも自分は人を殺してしまうかもしれない様な危険な物を扱っているんだという気持ちで運転すべきだと私が話したら、隣に座っていた大学で教鞭を取っているという40歳から50歳くらいの男性が「それは考え過ぎだろ」と言い、いくら説明しても聞く耳を持たなかった。事故を防止するには未然に対策を取る事が重要で、対策を立てるには起こりうる事故について出来る限り多くのリスクを想像する力が必要だ。当たり前でない事が起きるから事故が絶えないというのに、その簡単な理屈を面倒くさがって知らん振りしている人が世の中には結構いる様に思う。

個人に安全に対する考え方を押し付ける事はできないが旅客運送となれば話しは違う。プロの方々が万全のシステムを運用していると信じているからこそ私たち利用者は安心して旅客機に乗れる。しかし現実は違うという事を私たちは1985年8月12日のJAL123便墜落事故で知る。事故調査報告の通り不適切な圧力隔壁の修理方法が原因だったとしたら、同じ事故の再発を防ぐには修理方法を決める人たちに、自分たちの決断によって数百の人たちの命を奪う可能性が有るという想像力を持たせる事が大切だと思う。一人で軽飛行機を飛ばして墜落して起こす事故も大勢の人や会社が関わって運用している旅客機が墜落して起こす事故も、人の過失が引き起こすという点は同じだと思う。立場、旅客や設備の規模が違うだけで、リスクマネジメントの理念は共通だと思います。どんなフライトでも関わる人全てが如何に過失を減らすかを考え適切なマネジメントを心がける事が大切だと思います。
長崎平和祈念日
2015.08.09
何度も映画化された「猿の惑星」は作者が東南アジアで日本軍の捕虜になった時の体験がモチーフとなっている。アングロサクソンはアジア人を同じ人間とは思っていなかった。だからアメリカは日本に原爆を落とす事に躊躇しなかったのでは?と思う事がある。しかし、長崎は江戸時代からキリスト教徒が多く、カトリックの教会が沢山ある。アメリカ軍は異教徒の猿たちを原爆で攻撃したつもりだったのが、被爆後の長崎に行ってみたら立派なロマネスク様式の教会や聖母マリア像が無惨に破壊され、自分たちと同じキリスト教を信じる人たちが凄惨な目に遭っていたのだった。アメリカがこの事実を隠そうとした事は想像に難くない。浦上天主堂を広島の原爆ドームの様に壊れた状態で保存すべきという意見が多かったにも拘らず、戦後たった13年で奇麗に再建されたのにはきっと圧力が有ったのだろうと思う。長崎で被爆された方々のご冥福をお祈りします。
広島平和祈念日
2015.08.06
八月六日は広島がアメリカ軍に原子爆弾で爆撃された日。私は広島にゆかりも無く親族に被害者もおりませんが、被害に遭われた方々の事を思うと胸が詰まります。この日二十万人に及ぶ方々がとても悲惨な目にあい亡くなられた事、それは天災でなくアメリカ軍が故意に一般市民に対して行った攻撃であった事を忘れてはいけない、と私は毎年この日に心に刻む様にしています。被害に遭われ亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り致します。
調布飛行場Malibu墜落事故
2015.07.27
調布の墜落事故について間違いを恐れずに書くと、Malibuのマニュアルによれば5人乗って燃料満タン120ガロン入れたら荷物が0でも4,600ポンド強となりMaximum Takeoff Weightの4,340ポンドを超過。報道の通り当時気温34度で無風とすれば離陸に必要な滑走距離は約2,400ft、調布の滑走路は約2,600ftなので滑走路を目一杯使ってギリギリ離陸。フジテレビMr.サンデーの動画分析によれば離陸時の速度は時速130kmで約70ktsとなりこれはフラップ20°であればほぼマニュアル通り。映像や目撃証言によればかなり低空飛んでいたらしいので、離陸後十分な揚力を得る前にフラップを0°に戻した為失速したかも知れない。

私が自家用飛行機の免許を取ったサンディエゴの東には砂漠地帯があり真夏の日中は気温40°を超える。そういう砂漠地帯にある小さな空港は標高が高くなくても到着後に気温が上がると空気が薄くなり離陸出来なくなり帰って来れなくなるので気をつけろとインストラクターに言われた。今日はとても暑かったので、調布の事故のニュースを聞いて先ずその言葉を思い出した。

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